人間賛歌ブログ

映画、音楽、仕事、食べ物、、自分が取り込んだもので自分がどうやって成長していくかの記録です。

田舎ではスポーツができることがマジョリティーなのさ。

久しぶりに庭先でボールを蹴った。暇すぎて。小学校中学校とサッカー部だった。高校に入学してからはテニスをやり始めたし、大学の四年間にいたっては音楽である。サッカーいや、スポーツなぞ大学1年の健康科学という名の体育ぶりだ。久しぶりに蹴ったボールは表面の皮がとても固く感じられた。リフティングをしてみる。現役だったころもこのリフティングというやつが苦手だった。最悪なことににはリフティングは練習メニューの中には当然のように組み込まれていて、中学生の僕を苦しめた。サッカーコートのハーフラインからリフティングでエンドラインを目指す。途中で地面にボールをつけようものなら最初からやり直し。右足だけ、左足だけ、両足だけ、ももだけ、頭だけ。コレをすべて行う。リフティングが苦手な僕にとっては地獄だった。
当時はこうやって暇な時間にリフティングに興じるなんて考えられなかった。7年経ってもリフティングはヘタクソのまま。5、6回しかできなかった。なんどかチャレンジはしてみるんだけど、5,6回に色をつけて10回程度。それですぐに飽きて家のなかに戻ってしまった。みかんでも食べながらサッカー部だった頃を思い出していると、ふとある考えがよぎった。
「田舎ではスポーツができない奴はクソなのでは」と。僕の場合、実家を離れると同時にスポーツをやらなくなった。実家に比べて神奈川は遊ぶところも多い。スポーツもやろうと思えば出来るが、幾らかお金を払わなければサッカーグラウンドもテニスコートも借りることは出来なかった。実家の周辺にはサッカーが出来る広場があり、わざわざお金を払って遊ぶことはなかった。田舎には遊ぶ場所が都会に比べて格段に少ないのだ。田舎にはゲームセンターもなければ映画館もひとつしかない。街並みを楽しむような風情もなければ、ウィンドウショッピングを楽しめるお店もない。吉幾三の有名な?ラップではないが、あの歌詞は田舎を物語っている。都会はわざわざ自慢の運動神経を披露するには狭すぎる。狭いというのは、スポーツを行うのにわざわざ施設を借りなければならないということ。そして、都会では遊ぶことイコールスポーツではないということ。お洒落なカフェに行っておしゃべりしたり、美術館に行ったり、クラブに行ったり。いろんな選択肢があるのだ。運動神経が良いことや運動神経が悪いことをわざわざ披露しなくてもいいのだ。田舎にそれらの施設がないことは言うまでもない。
スポーツ、外で遊ぶことが田舎ではマジョリティなのだ。運動神経のないやつは自然とマイノリティに追いやられる。

もし自分に子どもができたら、運動神経はなくても長距離マラソンが得意な子になってくれればいいなあと思う。